1日1食(たまに0食)、気まぐれ断食男のブログ

日々食事は1日1食で、たまに0食という変わり者のブログです。思ったことを日々気まぐれに書いていきます。

小学校の思い出5 食べ方に厳しかった先生

 

前回の記事でも

給食の事を書いたけど、

この給食での思い出をまたひとつ。

 

 

前回の記事

 

dannjiki835.hatenablog.com

 

 

 

 

給食の思い出とはいっても今回のは

担任のS先生の食事に対する

厳しい指導というか、少なくとも

楽しい思い出ではない。

 

 

 

僕の1年生2年生の時、

そして5年生6年生の時と、

計4年間担任だったのが

当時30代後半~40代前半

という年齢だった女性教師S先生。

 

このS先生は、給食、食事の時に

食べ方にけっこう厳しかった。

 

 

まず主食は、

各自おぼんの左側に位置してないと

注意されるし、

 

いただきますの直後は、

まず飲み物をひと口飲んでから

食べ始めろだの、

給食を残すことは基本許されず、

全部食べ終わるまで、

給食の時間が終わってしまっていても

教室の隅っこで食べさせるほどだった。

 

 

僕はというと、

その残すのは許されないというやり方には

さんざん苦労した。

 

 

最初の1年生2年生の時は、

給食の量が多く感じて食べきれなくて

残したかったというのが多かったが、

その低学年当時でも、

後の5年6年になってからも

苦労したことがある。

 

それは魚が出てきた時や

エビ料理が出てきた時だ。

 

 

 

まず魚の場合も

当然全部残さず食べなければいけない。

 

それは骨も尻尾もだ。

 

 

基本的に給食では

そんなに噛み切れない大きな骨が付いた魚は

出てこなかった、

もしくは取り除かれて出てきたのだが、

青魚なんかは小骨がたくさん付いていたので、

今でこそ青魚大好きになった僕だが、

子供の頃は魚が苦手で、特に骨が苦手だった。

 

でもS先生は小骨だからと、

よく噛んで食べるようにと指導していた。

 

 

鰯のような丸ごと出てきた魚では、

当然頭から尻尾まで

全部食べるように言われた。

 

それらを残すことも許されないのだ。

 

これは当時の僕は苦労した。

というより他のみんなも苦労していた。

 

 

 

そして魚だけではなく

エビ料理の時も苦労した。

 

 

エビ料理の場合は、

エビの尻尾まで食べるように言われた。

 

さすがにエビの尻尾まで食べる人は

大人でも少数派ではないだろうか?

 

でもS先生はそれを子供達にやらせていた。

 

だからエビの天ぷらや、エビフライが

献立に出てきたときは大変だった。

 

 

魚でも苦労したが、

エビの尻尾は本当に苦労した。

 

うちの親もさすがに家では

エビの尻尾は食べなくていい、

と常に言っていたくらいだ。

 

そんなことをして尻尾が喉につっかえたら

大変なことになる、と、母は絶対に家では

エビの尻尾を食べることは勧めなかった。

 

それが普通だろう。

大人ならともかく、

子供は特にそのリスクは高い。

 

もし本当に喉につっかえてしまったら

大変な苦しい思いをすることに

なってしまうだろう。

 

だがそれをさせていたのがS先生だった。

 

これは当時だから

許されていたことなのだろうか?

 

今だったらそんなことを強制した先生は、

ニュースになったり、

ネットで叩かれたりするのではないだろうか。

 

S先生もおおらかな時代に現役で

よかったと思うよ。

 

今だったら世間から

袋叩きにあっていた可能性もあっただろう。

 

 

こういう今ではありえないことも、

昔は平気で行われていたんだなぁと、

我ながらよくその時代を生きてきたものだと

つくづく今は思う。

小学校の思い出4 給食が始まった

 

小学校の思い出シリーズ。

 

 

今日は1年生の時の

給食が始まった頃の事を思い出してみよう。

 

 

 

入学式が終わり、しばらくの間は給食がなく、

午前中だけの授業のみの学校生活だった。

 

それから少し経つといよいよ給食の始まりだ。

 

 

担任の女性教師、S先生から

給食の配膳の仕方などを教わり、

料理の並べ方なども教わった。

 

ちなみにこのS先生は、

けっこうそういうマナーに関しては

割と細かいほうで、

給食の時には、おぼんの下に敷く

小さなテーブルクロスを各自、

自宅から持参させるようにさせたり、

ごはん(主食)は左側に置くようにとか、

いただきますの直後は、

まず飲み物をひと口飲んでから

食べ始めるだの、

けっこう細かく児童に覚えさせていた。

 

 

配膳に関しては各班ごとに

給食当番が1週間交代でまわってくる。

 

僕もこれまで料理をお皿に盛るなんてことは

ほとんど経験がなかった。

 

一応幼稚園でも給食があったけど、

その時は給食という名のお弁当というか、

お弁当箱に入っているものが

配られただけだったので、

こういう配膳の経験は、

この小学校での給食で初めて経験した。

 

 

 

小学校で初めての給食の日

の思い出はすでに

書いたからここでは書かないけれど、

 

dannjiki835.hatenablog.com

 

 

僕は、1年生の時は、まだ給食の時間でも

お腹が空いていないことが多く、

けっこう食べきるのに苦労した。

 

 

後に常に完食できるようになって、

その後足らないくらいになるのだが、

この当時は給食の量が多いと感じた。

 

 

しかし担任のS先生は

こういう事にも厳しかった。

 

もう食べられないと訴えても、

なかなかごちそうさまをさせてくれない。

 

給食の後はすぐに掃除の時間が始まるのだが、

食べ終わらないと、その掃除の時間でも

隅っこで食べ終わるまで食べさせられた。

 

 

これはキツかった。

 

 

ただ単に好き嫌いを言って

残しているわけではなくて、

本当に満腹でもう食べられないのに、

無理やり全部食べるまで

ごちそうさまをさせてくれないのは

本当に辛かった。

 

一応どうしても

食べきることができなそうだったら

なんとか片付ける事を許されたのだが、

それはよっぽどの時で、

たいていは無理にでも食べさせられた。

 

だから1年生~2年生の

中盤くらいまでかなぁ、

そのくらいの時期は、給食の時間といえば

大変な思いをしたことがけっこうあった。

 

 

そしてこのS先生はそれだけではなく、

食事に関して他にも厳しい事が

色々あったのだけれど、

その苦労エピソードは

また別の機会に紹介します。

 

父とGWに後楽園にボクシングを観に行った思い出

 

 

前回の記事では96年の4月29日の

新日本プロレス

東京ドーム大会の事を書いた。

 

 

dannjiki835.hatenablog.com

 

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その大会は珍しく

父親と2人で観に行ったのだけれど、

そういえばその少し後の

5月のゴールデンウィーク

後楽園ホールにボクシングを

観に行ったことを思い出した。

 

 

 

ゴールデンウィーク中の

5月の3日だか4日だか5日だかは

覚えてないけど、その時に

母が用事で自宅に不在の日があった。

 

 

その日は父と僕2人で

ずっと家に居たのだけれど、

その時に父が、

 

「暇だなぁ、どこか出かけようか?」

 

と提案してきた。

 

 

 

僕も暇だったので

「そうだねぇ」と返事をしたものの、

どこに行こうか・・

 

連休中はどこに行っても混んでいるし、

どうしようかと考えていると、

父が「後楽園で何か格闘技の試合でも

やってないかな?」と発言した。

 

水道橋の後楽園は

割とすぐに行ける場所なので、

父は後楽園ホールでプロレスでも

ボクシングでも

何か試合をやっていないか

スポーツ新聞を見て調べ始めた。

 

 

やっていた。

 

ボクシングの試合が

その日の夕方から行われるようだ。

 

それじゃあこれでも観に行って、

帰りにどこかで飯でも食ってこよう、

ということになって、

僕と父は後楽園ホールに行くことが決まった。

 

 

後楽園ホールは、

僕は行ったことがなかったので、

一度行ってみたいと思っていたし、

つい先日東京ドームでの

新日本プロレスの試合の余韻が

まだあったので、

後楽園ホールでボクシング観戦

というのもいいかもと思い、

喜んで水道橋まで行った。

 

 

 

後楽園ホールに着き、

当日券を買って、中に入る。

 

 

後楽園ホールは大きい試合会場ではないし、

ましてや数日前に東京ドームでの

プロレス観戦をしていた僕と父は、

それと比べればどんな席であろうと

リングが近くに見えるであろう、

というのはわかっていた。

 

でも実際会場に入ってみると、

その想像よりもリングが近くに感じた。

 

それはもちろん前述の通り

直近で東京ドームの2階席で観たという

感覚が残っていたので、

よりそう感じたのもあったと思うけど、

それにしてもこれなら双眼鏡も使わずに

よく見えていいなぁ、と思った。

 

 

 

この日のボクシングの試合は誰一人として

知っている選手はいなかったけど、

やっぱり生でのボクシング観戦は

初めてのことだったので、

それなりに感動もあった。

 

 

 

そういえば後楽園ホールといえば、

ホールが入っているビルの階段に

落書きがたくさんあったのが印象的だった。

 

みんなプロレスやらボクシングやらの

感想やらその他関係ない言葉やら、

壁にたくさん書かれていた。

 

 

みんな色々な思いをぶつけているんだなぁ

と思いながら読んでいると、

つい先日の4.29東京ドーム大会のことも

書かれていた。

 

 

「4.29感動したぜ!!」など、

数日前のドーム大会の感想も

さっそく書かれていた。

 

 

そういう試合以外のことにも思い出ができて、

初の後楽園ホール訪問は終了した。

 

 

試合が終わり、僕と父は後楽園を後にして

電車で地元に帰ってきて、

その地元のとんかつ屋さんで食事をして

自宅に帰り着いた。

 

ちなみにあまりお腹が空いていなくて、

とんかつもあまり箸が進まなかったのを

鮮明に覚えている。

 

格闘技観戦などの

テンションがあがる出来事があると、

アドレナリンが出るのか、

意外とお腹が空かなくなったりするんだよね。

 

そんなことも記憶に残っている

96年のゴールデンウィークの思い出だった。

96年4.29新日本プロレスドーム大会の記憶 後編

 

前回の記事のあらすじ

 

1996年4月29日、僕と父は東京ドームに

新日本プロレスの試合を観に行った。

 

その中で行われた

IWGPジュニアヘビー級選手権試合で、

王者の獣神サンダーライガー選手が

みちのくプロレス

ザ・グレート・サスケ選手に敗れ、

IWGPのジュニアヘビーのベルトまでもが

他団体に流出してしまうという

とんでもない事態になってしまった。

 

ショックを受けた僕は、

メインのIWGPヘビー級選手権試合で、

挑戦者の橋本真也選手が

必ず勝ってくれることを祈っていた。

 

dannjiki835.hatenablog.com

 

 

 

とにかく負けられない、でも大丈夫だ。

橋本選手ならば大丈夫。

 

過去に長らくIWGP王者に君臨していた

破壊王なら、きっとやってくれると

僕は信じていた。

 

 

 

 

その前に、ここで試合とは関係ない

この日のドーム大会の

思い出エピソードを思い出した。

 

 

大会の中盤の休憩時間に気が付いたのだが、

この日は、タレントの南原清隆さんや

内村光良さんや勝俣州和さん、

TOKIO国分太一さんが会場に来ていた。

 

休憩時間になにやら観客から

歓声があがったと思って、よく見てみると、

そういったタレントの方が

来ていたことを発見した。

 

どうやらこの当時放送されていた

リングの魂」という番組の撮影で

会場に来ていたらしい。

 

 

 

新日本プロレスのドーム大会の

休憩時間といえば、

よくアントニオ猪木さんに変装した人が、

観客席をまわり、「1.2.3.ダァー」

と、やったりして、

観客を盛り上げたりしていた。

 

たぶんその方も

観客のうちのひとりなのだろうけど、

休憩時間のこういうのも面白かった。

 

 

 

あとこの大会で覚えているのは、

なぜか試合中にドーム内の電気、

照明がついていた。

 

どういうことかというと、

通常新日本プロレスの試合では、

会場の照明は落として、

リング内の照明だけをつけている

という状態で試合が行われているのが

ほとんどだった。

 

だけどこの大会では

なぜか会場の照明がついていて、

選手入場の時の

色々な色のライトアップなども、

いつもより迫力に欠けてしまっている気がして

残念だった。

 

なぜこうなったのかはわからないけど、

僕はいつもの通り会場内は

暗くしていたほうがいいなぁと思った。

 

ちなみにメインイベントの

IWGPヘビー級選手権試合では

会場の照明が落とされて、

いつもどおりのリングのみの照明

という状態になった。

 

 

 

話は試合に戻って。

 

 

メインのIWGPヘビー級選手権試合。

 

 

会場のボルテージが最高潮になる中、

田中リングアナの

「IWGPヘビー級選手権試合、

挑戦者、橋本真也入場!!」のコールの後、

爆勝宣言が流れ、大歓声の中、

橋本選手が登場する。

 

背中に闘魂伝承と書かれたガウンを着て、

いつものハチマキをしての入場は

最高にかっこいい。

 

 

 

そしてチャンピオンの高田選手の入場。

 

橋本選手の迫力のある入場に比べ、

落ち着いた印象のある入場に感じた。

 

まぁチャンピオンの落ち着いた風格というか、

高田選手の入場曲自体が

そんな雰囲気の曲というのもあるのだが。

 

 

そしてついに試合開始のゴングが鳴る。

 

 

試合は両者ともに

蹴りの得意な選手だけあって、

蹴りを互いに繰り出していた。

 

 

やはり体重とパワーで勝る橋本選手のほうが

蹴りが重いのか、途中、橋本選手の蹴りで

高田選手が吹っ飛ぶ場面もあった。

 

しかし高田選手も蹴りのラッシュからの

ハイキックで、

橋本選手からダウンを奪う場面もあった。

 

 

やはり高田選手は凄い。

 

 

 

試合中盤、橋本選手が脇固めを仕掛け、

それが極まった。

 

 

よし、これでいけるぞ、勝てる!

と思った僕だったが、逃れられてしまった。

 

 

 

その後も高田選手の蹴りの連打に

橋本選手はグラっときたりもしていたが、

それでも隙をみて水面蹴りや、

袈裟切りチョップで応戦し、

高田選手を攻めたてる。

 

 

試合終盤、橋本選手が繰り出した

必殺のDDTに会場は沸き立った。

 

そしてその後に橋本選手究極の必殺技、

垂直落下式DDTの体制を取った。

 

この技は本当に究極で、

これを喰らったらほぼ相手選手はお終い、

というくらいの究極の必殺技だった。

 

 

なんとか持ち上げられないように

こらえる高田選手だったが、

橋本選手が膝蹴りをお見舞いし、

そしてついに持ち上げた。

 

 

高田選手を高く持ち上げ、

そのまま文字通りに垂直に頭から落とした。

 

 

会場も大歓声があがり、僕も瞬間的に

勝利という2文字が頭に浮かんだ。

 

 

そして橋本選手は間髪入れずに

高田選手に三角締めを極めた。

 

逃げられない高田選手は

ここでついにタップし、

橋本選手が勝利した。

 

その瞬間ドーム内はもの凄い大歓声!

 

橋本選手のテーマ曲が流れ、

僕も飛び上がって喜んだ。

 

 

やった、ついにIWGPヘビー級のベルトが

新日本に戻ってきた。

 

 

本当に良かった。

 

 

先の試合でジュニアヘビーのベルトまでが

他団体に流出してしまっていたので、

絶望感があったのだが、これでなんとか

ヘビー級のベルトは帰ってきて

ホッとした。

 

 

この日の僕はこれまた橋本選手の勝利で

満足してドーム大会を終えることができた。

 

 

IWGPのヘビー級のベルトが

新日本に戻ってきた

ということも嬉しかったが、

橋本選手がIWGP王者という時代が

再びやってきた、という事実も嬉しかった。

 

 

 

こういう経緯があって、4.29、

1996年4月29日はとても印象に残る

プロレス観戦となって、

いまでもその時期になると思い出す

特別な思い出となって

僕の記憶に存在している。

96年4.29新日本プロレスドーム大会の記憶 前編

 

先月、4月下旬、

この時期に思い出す中学時代の記憶。

 

日にちの数字でもまだ記憶に残っているが、

4月29日、この数字の並びで思い出すのが

4.29東京ドーム

 

1996年の新日本プロレス

東京ドーム興行だ。

 

 

この大会も僕は

東京ドームまで観に行ったのだが、

これまた強烈に印象に残っている。

 

 

この大会も65000人の観客を動員した

新日本プロレス史に残る大会だった。

 

 

この大会の試合は全9試合だったけど、

特に記憶に強く残っている試合を

思い出してみた。

 

 

 

ところでこの大会は

父と2人で観に行った大会

ということでも思い出に残っている。

 

いつもはプロレスの試合は

兄と一緒に観に行っていたのだが、

兄はこの時は高校生になっており、

そして高校で野球部に所属していたため、

休みがほとんどなく、

プロレスの試合を観に行くというのは

ほぼ不可能な状態だった。

 

だけど僕は、

この大会はどうしても観に行きたかった。

 

というのも、この大会の対戦カードは、

当然だいぶ前に発表されていた。

 

そこで僕が最も注目したカードは

なんといってもメインの

IWGPヘビー級選手権

 

 

当時チャンピオンには

UWFインターナショナル

高田延彦選手が君臨していた。

 

IWGPのベルトが

他団体の選手に渡ってしまっている

という状況に、危機感と

絶望感を感じていた僕は、

この4.29の対戦カードが

ワールドプロレスリングの放送の時に

発表された時、思わず「おぉー!」と

声をあげるほど衝撃を受けた。

 

挑戦者は橋本真也選手に決定したというのだ。

 

 

橋本選手といえばこの当時の

前チャンピオン武藤敬司選手のさらに前に

長く王者として君臨していた選手。

 

その強さと実績、この橋本選手なら

ベルトを取り返す事ができるかも!

 

そう感じ、さらに橋本選手といえば

蹴りが得意な選手。

 

高田選手の蹴りにも負けない

威力があると信じていた僕は、

一度高田選手との対決を見たいと

ずっと思っていたのだ。

 

 

そういう経緯があって、

これは観に行かなければ、

翌日に新聞で結果だけ見るのは物足りない、

是非ともリアルタイムで観たい、

そう思った。

 

 

だが兄は野球で休みが無いので

行く事はできない。

 

この当時の僕には、

一人で観に行くという選択肢はなかった。

 

もう仕方なく諦めようかと思ったら、

父が「俺も観に行ってみたいなぁ」

と、言い出した。

 

 

驚いた。

 

 

父の口からそんな発言が出るとは

思ってもいなかった。

 

 

実は父も僕ら兄弟ほどではないけど、

プロレスやら相撲やら格闘技は

好きなほうだった。

 

だから僕ら兄弟が

プロレスに夢中になっているのを見ていて、

また、僕らが過去に東京ドームなどに

プロレスを観に行った時の感動を

熱く語っているのを聞いて、

自分も一度観に行ってみたい、

という気になっていたようだ。

 

ともかくこれによって

僕は観に行くことが決定して嬉しかった。

 

 

 

チケットはいつもどおりまた

一番安い席の5000円席を

父が買ってくれた。

 

 

 

大会当日、父と一緒に会場入り。

 

いつもの通り大会パンフレットを

2000円で購入し、試合開始を待つ。

 

 

 

この日の試合は全試合覚えているけど、

その中でも特に記憶に残っているのは2試合。

 

この日は新コスチューム(ペイント)と、

当時の武藤選手の入場テーマ曲

「TRIUMPH」をアレンジした

新テーマ曲で登場したグレートムタ選手が、

新崎.白使.人生選手を血だるまにした試合や、

天龍源一郎選手のグーパンチで、

鼻から大量の出血をして、

全身血まみれになった

藤波辰爾選手の試合も印象に残っているが、

やっぱりIWGPのヘビー級、

ジュニアヘビー級、両選手権試合の2試合は

僕の中で特別だ。

 

 

 

まず、IWGPジュニアヘビー級選手権試合。

 

 

チャンピオンの獣神サンダーライガー選手対、

みちのくプロレスから参戦の

ザ・グレート・サスケ選手の戦い。

 

 

試合は開始早々から飛び技が繰り出され、

まさにジュニアヘビー級の試合

という感じがして、

ジュニアの頂点を決めるのに

ふさわしい戦いとなった。

 

しかし僕はこの試合はどうしても

ライガー選手に勝ってもらいたかった。

 

というのも、この時IWGP

ヘビー級のベルトが高田選手の手にあり、

IWGPのベルトが他団体に流出している

という事態だったため、

ここでみちのくプロレスのサスケ選手に

ライガー選手が負けてしまうと、

ジュニアヘビー級のベルトまで

他団体に流出してしまうという

とんでもない事態になってしまうからだ。

 

それだけはなんとか防いでほしいと、

祈りながら試合を観ていた。

 

しかし、終盤、サスケ選手が繰り出した

タイガースープレックスで、

ライガー選手は3カウントを奪われてしまい、

サスケ選手が勝利し、

会場にサスケ選手のテーマ曲が鳴り響いた。

 

 

僕は茫然とし、IWGPのベルトが

2つとも他団体に流出してしまった事実に

失望感を感じずにいられなかった。

 

 

もうこうなったら、

この日のメインイベントの

IWGPヘビー級選手権で、橋本真也選手が

絶対ベルトを取り戻してくれることを

期待するしかない。

 

 

絶対勝ってくれ~橋本~!

 

 

続く

小学校の思い出3  入学直後の授業は楽勝だった

 

前回は小学校の入学直後の

友達の思い出について書いてみたけど、

まだまだ小学校の時の思い出はあるから、

シリーズ化して、覚えている限り

どんどん書いていこうかなと思った。

 

でも続かなかったりして(笑)

 

とりあえず前回と前々回の記事を

小学校の思い出1と2として、

今回は3で。

 

 

 

前回の記事

dannjiki835.hatenablog.com

 

 

 

 

今回は小学校入学直後の

授業について思い出してみようかな。

 

 

 

 

小学校生活がスタートして、

よいよ授業も始まった。

 

国語、算数、理科、社会、体育、

図工、音楽、道徳、といった教科だ。

 

だけど僕は幼稚園に通っていた時に、

幼稚園内でひらがなカタカナも教わったし、

数字も、足し算引き算も教わっていた。

 

 

あと音楽では楽器も幼稚園で使っていたので、

音符を読むのもお手の物だった。

 

だから、小学校の最初の

ひらがなカタカナの勉強も、

算数の足し算引き算の勉強も、

僕は「そんなの知ってるよぉ・・」

という余裕の心境で馬鹿にしていた。

 

 

そんなんだから

1年生の最初の頃は当然成績も良かった。

 

だけど、ここで調子に乗って

余裕こいてしまったのがいけなかった。

 

その後はだんだん成績は下降して、

平均以下にまでなってしまうのだが、

今でもこの時の事は反省している。

 

調子に乗らずに謙虚にちゃんと

勉強するクセをつけていればと今は思う。

 

だけど6歳の子供に

そんな意識などなかった、

まぁ幼かったし、仕方なかったのかな・・

 

余談だけど、国語の授業で

一番最初の教科書の本読みで、

『きこえる きこえる なみのおと』って

みんなで声を合わせて読んだのが

なぜか記憶に残っている。

 

 

 

この頃は担任の先生もやはり1年生だからか、

あまり怒ることもしなくて、

優しい感じだった。

 

 

 

体育の授業では、

当然体操服に着替えて授業を受ける。

 

そして終わると当然また

服を着替えるのだけど、この時6歳の僕は、

体操服を畳んで袋に入れる

ということができずにいた。

 

だからいつも袋の中に

体操服を無造作に押し込んで入れるだけ。

 

そのせいでいつも体育の授業の時は、

シワだらけの体操服を着ていた。

 

 

 

 

入学してしばらくは給食もなく、

午前中授業だけで終了、

という日々だったので、

4時間目の授業が終わると、

帰りの支度をして、地域ごとに外に整列して、

それぞれ地域ごとに

みどりのおばさんと呼ばれる人達に先導されて

ゾロゾロと下校する。

 

 

その後給食が始まるのだが、

この給食では僕の担任の先生は

ちょいと厳しかった。

 

それはまた次回にでも書こうかなと思う。

小学校の思い出2  さっそく友達ができた

前回の記事では小学校の

入学式の日の事の思い出について書いた。

 

6歳の時の事だったため、

鮮明には覚えていないけど、

覚えている限りで思い出して書いてみたのだ。

 

dannjiki835.hatenablog.com

 

 

 

6歳の時の事なので、

鮮明には覚えていないとはいえ、

一応入学式のその後の事も記憶にあるので、

今回はそれも思い出してみようと思う。

 

 

 

 

 

入学式が終わり。

 

いよいよ小学校生活がスタートした。

 

 

 

朝は登校班ごとに集団登校する。

 

各地域ごとに班が決められているのだが、

僕が住んでいるマンションでは

同じ学校に通う子供達が

各学年にけっこういたため、

このマンションの児童達で

ひとつの班となっていた。

 

 

マンションには公園のような

遊具があるスペースが少しあって、

毎朝そこにみんな集合する。

 

そして時間が来ると

班長さんがみんなを整列させて、

班長が先頭で副班長が最後尾について、

みんな固まってゾロゾロと登校する。

 

 

僕は1年生なので、

班長さんの真後ろあたりに付いて登校する。

 

 

僕の他にもこの班には

1年生は3人くらいいた。

 

 

登校までは兄も一緒だから

なんの不安もなかったけど、

クラス内では、

直前に引っ越してきた影響もあって、

幼馴染というような、

以前から知っている友達はいなかった。

 

だから最初は知っているクラスメイトが

誰もいないという状態でスタートしたのだが、

そんな不安はすぐに解消された。

 

 

 

初登校から数日後、

とある外出から帰ってきて、

前述のマンションの下の

公園スペースを通る時に、

同じ年くらいの男の子2人が

遊んでいるのが見えた。

 

 

よく見るとなんだか見た事のある顔だ。

 

 

すぐに気が付いた。

 

同じクラスメイトの1年1組の子だ。

 

 

僕はすぐに話しかけて、

僕の家はこのマンションなんだ、

という話をして、思い切って、

僕の家に遊びに来ないか?と訊いてみた。

 

するとひとりは

もう帰らないといけない時間らしく、

帰ると言い、

もう一人の子は行きたいという返事だった。

 

 

僕はその子を家に連れて来て、

僕の家にある、おもちゃ箱を紹介して、

おもちゃを見せてあげた。

 

すると、うちには割かし

色んなおもちゃがたくさんあった

という感覚らしく、

その子は夢中でおもちゃ箱から

次々におもちゃを取り出し、

楽しそうにいじっていた。

 

 

この子はクラスメイトのG君。

 

G君は、よほどおもちゃが気に入ったのか、

その日から毎日僕の家に

訪ねて来ることになり、

その都度夢中で色んなおもちゃで遊んでいた。

 

よほど珍しかったのだろう、

ほんとに毎日のように訪ねてきた。

 

僕とG君はこれがきっかけで

すぐに仲良くなった。

 

学校でもG君と一緒に

休み時間を過ごしたり、

放課後も一緒に遊ぶことが多かった。

 

 

そのうちにあの時に公園で遊んでいて

帰ってしまった子も、

うちに来るようになって、

3人で遊ぶことも多くなった。

 

 

 

こんな感じで、

すぐに仲良くなった友達ができて、

クラスに誰も知っている人がいない

という不安は、入学してすぐに解消された。

 

 

多分母もこの事には

ホッとしたというか、嬉しかったに違いない。

 

 

そしてこの後も

次々と友達ができていったのだが、

今思うと、僕の人生で

ここまで友達を次々に作って

色々遊んだりしたのは

この時が一番だったと思う。

 

少なくとも小学生までは

まだこんな感じだったのだが、

それ以降は、この時の事が

信じられないというくらい人見知りというか、

人を避けるほうが当たり前になっていった。

 

まぁそれはこのブログでも

さんざん書いたかもしれないけど、

それまでの体験が影響しているのも

かなりあったんだと思うけどね。